- 生業(なりわい)は狂言役者
- 初舞台は、2歳8ヶ月の時です。その時の記憶は全くありません。
かっこよく言うと、気が付いたら狂言をやっていました。現在では、能と歌舞伎の方が一緒に踊ったり、そこへ狂言の役者が入り同じ舞台にあがることもあります。50年前には、想像もつかなかったこと。そういうことを一番初めにやりだしたのが、僕らなのです。その時に僕は、「狂言もやる役者だ」と、狂言師ではなく狂言役者と言っていました。考えてみると、随分「つっぱった」生活をしていました。そういうことを言わないと、皆が注目してくれなかった時代でした。そう、古典の世界は自分たちで壁を作っていたんですね。今のような時代になるには50年かかりました。
- 戦後の学校での狂言巡演
- 学校の狂言巡演は戦前からも少しやっていました。特別なイベント・卒業式などに招かれて。戦後は、学校の体育館のステージに出かけていって狂言をみてもらう。『狂言の出前』といっています。新しい原動でした。その時に狂言をみた子どもたちが、今は団塊の世代です。そう、校長先生になっていて、また学校に呼んでくれるわけなのですね。学校の狂言巡演は確かに、狂言を皆に知ってもらうという意味では大変大きな力になったと思います。
- 狂言に内在する変化していく要素・DNA
- 狂言に関らず、芝居というのは絶えず変化しています。狂言でも能でも歌舞伎でも、観客のリアクションを受け止めていきます。狂言の中には、変化していく要素・DNAがあるのです。生きたお芝居ですから。僕が若い時分にしていた狂言と、今やっている狂言は随分違うと思います。はっきり言って、ドラマチックです。
- お豆腐狂言と新作狂言『豆腐小僧』の出会い
- うち(茂山狂言会)の狂言は『お豆腐狂言』と言っています。お豆腐は決して高級な食材ではないですけれど、料理のしようによっては、非常においしく食べられる。こういう誰にでも愛される狂言をやっています。
京極さんとの出会いは、偶然でした。狂言を書かれた第一作が『豆腐小僧』です。『豆腐小僧』というのは、江戸時代『狂歌百物語』や滑けい本でお馴染みとなったのにわずか30年で突然消えてしまった妖怪キャラクターです。そして、狂言界のスター、大名・太郎冠者※1そして次郎冠者※2と平成の現代で出会うのです。ところが、それをお客様は全然違和感なく御覧になる。京極さん自身も違和感なく書かれたに違いないと思います。狂言は、そういう時間・空間を超越した不思議な芝居なのです。
※1.2) 太郎冠者(たろうかじゃ)、次郎冠者(じろうかじゃ)…狂言での登場回数がとても多い代表的な登場人物。いろいろな曲目で、それぞれの太郎冠者・次郎冠者として登場します。
- 子どもたちにこそ狂言を
- 最近の学校の先生たちは、狂言をみたことがない方が多いです。小学生のお子さんに、古典の狂言を見せてもわからないのではないか、と思って敬遠されています。しかし、子どもたちというのは、狂言にとっては、非常にいいお客さまです。というのは、狂言というのは舞台装置も使わず、小道具もほとんど使わない。「あるつもりの演技」といっています。たとえば、雨が降ってきたつもり、お酒を飲んだつもり…。子どもはすぐ、つもりなってくれる。イマジネーションが子どもは豊富であり、非常に純粋。狂言と子どもたちは親しみやすいのです。
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- 1923年10月14日生まれ。
狂言役者。演出家。
2歳で『似呂波(いろは)』初舞台。23歳で『釣狐(つりぎつね)』を披く※3。
1946年二世千之丞を襲名。
兄の千作とともに、狂言の普及、復曲・新作狂言に務める一方、1948年狂言役者としては初めてラジオ・ドラマに出演。
また1976年より上演の新劇『夕鶴』の与ひょう役では出演500回を超えた。
また、宝塚歌劇やオペラ、スーパー狂言その他の演出も手がけ多彩な芸能活動を展開。
1996年芸術選奨文部大臣賞 など多数受賞。
※3) 披く(ひらく)…狂言師が初めて狂言を勤める時に「披く」という言葉を使います。
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