2008年1月鳥取県民文化財団情報誌 アルテ
アルテとはスペイン語で「芸術・美術・技巧」などの意味で、英語では「アート」。アルテでは、県民文化会館をはじめ鳥取県内の文化施設のイベント情報を紹介しています。

 数百年の時を越えて、今もなお、クラシックの名曲は全世界で愛聴されています。これらの名曲を、作曲者はどのようにして作ったのでしょうか。豊富な音楽知識と感性を持って譜面に仕上げた…と思い浮かぶのかもしれません。
 しかし、大作曲家と言えど、今も昔も同じ人間。恋をして、恋に苦しみ…、実はそれが音楽を作り出すエネルギーの源になっていました。

作曲家に恋愛はかかせない!

 恋愛に関係した伝説に事欠かなかった作曲家の中でも、特にベルリオーズ、ショパンの逸話は、興味深いものがあります。この2人は7歳違いで、親交もありました。それぞれ異国の地で生まれ、同じ時代を生き、同じように音楽に情熱を注ぎ、世界中の誰もが知る曲を世に送り出しました。
ベルリオーズ
ショパン
1803年〜1869年 フランスのロマン派音楽の作曲家。
伝統的な枠組みにとらわれない自由な形式の管弦楽作品を生み出した。色彩的な管弦楽法をはじめとする斬新な音楽語法は、多くの作曲家に影響を与えた。
1810年〜1849年 ポーランドの作曲家、ピア二スト。
「ピアノの詩人」と呼ばれ、作品の大部分がピアノ独奏曲である。様々なピアノの表現形式を拡大し、それまでなかったピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。
フランス南部 リヨン郊外 ラ・コート=サン=タンドレ に生まれる。 0歳 1803年
パリの医科大学に入学するが、オペラに夢中になる。 18歳 1821年
パリ音楽院の作曲家教授ジャン=フランソワ・ル・シュールに個人的に師事して、『荘厳ミサ曲』を書き上げ演奏会を行う。
このことが両親に知れ、連れ戻される。
22歳 1825年
送金を止められたまま、パリ音楽院に入学。
再三の
ローマ大賞※への挑戦の熱意におされ、送金が再開される。
23歳 1826年
オデオン座でイギリス劇団の「ハムレット」をみる。
4歳年上の人気女優ハリエット・スミッソンに夢中になる。
24歳 1827年
スミッソンに近づくために、自分の名前をパリ中に知らせるコンサートを、巨額の負債を負いながら行う。
その後、ベルリオーズは熱烈なラブレターを送るが受け取りを拒否される。
25歳 1828年
スミッソン、イギリスへ帰る。
直後に、ベルリオーズは友人にこう書き送っている。
「彼女は今ロンドンにいる。それなのに僕は身近に彼女がいるように思えてならない。彼女のことを思うと、僕の心臓は動悸を打ち、蒸気機関のピストンのように僕を駆り立てる。僕の身体の筋肉は苦痛のあまり慄えている。」それから2ヵ月後の1830年4月16日に、ベルリオーズは「幻想交響曲」の完成を報告している。
若く美しいピアニスト、マリー・モークと恋に落ちる。
5度目の挑戦で
ローマ大賞第1位を獲得する。これによりマリーの両親から婚約を許可される。
27歳 1830年
ローマ留学中に、ベルリオーズとの結婚に反対だった母親により、マリーはピアノ会社の御曹司と結婚してしまう。
これを知ったベルリオーズは、ピストル2丁と自殺用の毒薬と変装用の女物の衣服を買いフランスへと馬車を走らせるが、思いとどまる。
この一件から、叙情的独白劇『レリオまたは生への回帰』が生まれる。
パリに戻り、幻想交響曲の演奏を聴いたスミッソンと結婚する。一人息子を授かる。
28歳 1831年
スミッソンのために慈善演奏会を開く。(ショパンはリストと共に出演) 30歳 1833年
スミッソンと別居。
このころ、フランス国内よりも国外での評価が高まり、外国への演奏旅行にたびたび出かける。
38歳 1841年
ハリエット・スミッソン死去。
同棲していた10歳年下の歌手のマリー・レチオと結婚する。
51歳 1854年
マリー・レチオ死去。 59歳 1862年
パリで死去。 65歳 1869年
1810年 0歳 ポーランドの中央に位置するジェラゾヴァ・ヴォラに生まれる。
1826年 16歳 ワルシャワ音楽院に入学 。
1829年 19歳 コンスタンツィア・グワトコフスカ(声楽家)と演奏会で出会う。
ショパン「僕にとって不幸なことかもしれないが、憧れの人を見つけてしまった。」
コンスタンツィアの詩「悲しい運命。…(中略)…忘れないで。ポーランドにはあなたが愛している人がいることを。」
ワルシャワ音楽院を首席で卒業。ウイーンで演奏会を開く。
1833年 23歳 スミッソンのためにベルリオーズが開いた慈善演奏会に、ショパンはリストと共に出演。
1835年 25歳 かつて親交のあったポーランド人貴族ヴォジンスキ伯爵家のマリアと再会。ワルツを献呈。
1836年 26歳 マリアに求婚。マリ・ダグー伯爵夫人(リストの愛人)のサロンで女流文学家ジョルジュ・サンドを紹介される。
1837年 27歳 ショパンの健康を危惧したヴォジンスキ家からマリアとの婚約を破棄される。(マリアから贈られたバラの花と手紙の束は、彼の死後「わが哀しみ」と書かれた紙包みの中から見つかる。)
1838年 28歳 女流文学家ジョルジュ・サンドとの交際が始まる。
(画家のドラクロワは、サンド、ショパンとも親交があり、2人の肖像画を描いている。)
その後、冬はパリ、夏はノアンにあるサンドの別荘で暮らす生活が始まる。
9年に及ぶ交際、劇的な破局の間には
「バラード4番」「英雄ポロネーズ」等、数多くの傑作を生んだ。
1846年 36歳 サンドと別れる。
1848年 38歳 パリでの最後の演奏会、ロンドンでヴィクトリア女王の御前演奏など好評を博す。
1849年 39歳 パリで永眠。埋葬されるが、意向により心臓だけは、姉によってポーランドに持ち帰られている。
※ローマ大賞
 フランス・アカデミーが、作曲・建築・美術の若手を対象に毎年1回行うコンクール。各部門の優勝者には、年3000フランの奨学金が5年間与えられる。加えて、4年のローマ遊学と1年のドイツ留学が贈られる。
 

Q.ショパンの曲について、どのような印象を持っていますか?
A. ショパンという作曲家は僕にとって、特別な存在の作曲家の一人です。ショパンは全ての作品がピアノ曲と言っていいほどで、ピアノの魅力を誰よりも理解して、またそれを愛していたのだと感じます。こんなにみんなに愛される素晴らしいメロディーを作曲できる人はまずいないでしょう。後期の作品になってくると、ハーモニーもより複雑になり、非常に人間の深い心の内面的なものを表現するような、なんとも感動的な作品がたくさんあります。


Q.ご自分も、恋愛は演奏のパワーとなっているのでしょうか?
A. どうでしょう…。まぁ、やはり、生活が充実しているとモチベーションがあがりますから、いろんなアイデアや新しい発想を思いつくことがあります。ショパンもジョルジュ・サンドがいなかったら、本当に精神病になっていて作曲どころではなかったでしょう。ショパンの素晴らしい作品の殆どはサンドと過ごした中で生まれているので、僕はショパンにサンドという存在が無ければ、ショパンの曲を演奏することはないわけです。ですからサンドという女性にショパンファンは感謝しないといけませんね!
★関本昌平公式ホームページ http://www.shoheinet.jp/

★今後のスケジュール ラジオ出演 BSS山陰放送 1/17(木)「アートな生活 ココロのサプリ」出演予定
           10:15〜10:20頃(予定)*詳細時間は変更になる場合があります。


 (参考文献)
・「アナリーゼで解き明かす名曲が語る音楽史〜グレゴリオ聖歌からボブ・ディランまで〜」田村和紀夫著(音楽之友社)
・「ウィーン・フィル世界の名曲 ベルリオーズ《幻想交響曲》他」 イオン
・LONDON NEW BEST 100 ベルリーズ《幻想交響曲》 ポリドール株式会社
・「新編 音楽小辞典」金澤正剛編(音楽之友社)  
・「ショパン」 小坂裕子著(音楽之友社)  
・フリー百科事典 ウィキペディア日本語版


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